センスや才能のせいにして語学学習をあきらめるのは楽しいですか
- 蒼太 丸山
- 2月27日
- 読了時間: 3分
語学学習でセンスや才能を気にする必要はありません。昔、「英語なんて言葉なんだ こんなものやれば誰だってできる」というCMがありましたが、僕は今でもこのメッセージはあっていると思います。
ただ、世の中、センスや才能、頭のよさなどといった形の理由付けを行い、「才能がないから英語学習は向いてない」と、自ら語学学習の足を止めようとする人たちが一定数います。
そこで今回は、「英語学習はやりたいならやればいいし、やりたくないならやらなけらばいい」というシンプルな僕の主張をつたえるとともに、才能どうこうは一切ケアする必要がないことを説明します。
理由が先か、インテントが先か
原因と結果というものは通常、原因(理由)が先に来ます。お腹がすいたからご飯を食べる、明日テストがあるから勉強を始める、などといった感じです。
ところで、英語学習を才能を理由にあきらめようとする人の心理は何でしょうか。上記の話と同様に、才能がない、だから、あきらめる、というクリアな因果関係であると感じる人もいると思いますが、僕はそのように感じません。
僕は、才能を理由に英語学習をあきらめる人の心理として、英語学習をやりたくない、という感情がまず先に来ているように感じています。原理的欲求としての「やりたくない」という感情があり、後からそれっぽい理由が追加されるだけです。そして、その、それっぽい理由のひとつに、才能やセンスがあります。
なぜこのようなややこしい理由付けが発生するかと言うと、やりたくないという真意(インテント)を素直に表に出すのが、なんだか恥ずかしいから、というのがあります。やりたくないと素直に表明するのはなんだか幼稚な印象があるような気もしますし、「才能がない」と言った方が、なんだか大人っぽいカッコイイ理由付けになります。
ふつう、やりたいことがあったら、やりますし、才能についてはケアしないはずです。ジョギングしたいと思ったらジョギングするだけですし、コーヒーしたいと思ったらコーヒーするだけです。その人の頭の中に、ジョギングやコーヒーの才能に関する懸念はうまれないはずです。
まだ本気を出していないだけ
冒頭の、英語なんて言葉なんだ こんなものやれば誰だってできる、を再度思い出してください。この言葉はその通りであり:
英語ができない理由は、英語をやってないから
英語ができる理由は、英語をやっているから
というのが真実であり、才能どうこうの話は出てきません。そして、「英語をやる」というのは、単に手を付けるということではなく、自分でよく考え、試行錯誤して、本気を出して取り組むということです。
この、本気で、というのは、時間をたっぷりかけるという意味ではありません。そうではなく、思考のリソースを語学にきちんと向けるという意味であり、結果的に何時間勉強したか、みたいな、量的な話ではありません。
センスを褒めるのもあまり好きじゃない
また、語学が堪能な人に対して、「センスがあるんだね~」とか、「頭がいいのね~」とか、「頭の作りが違うんだね~」という言葉をかける構図もあまり僕は好きではありません。
というのも、ここまでの話からもわかるように、語学ができるかは、その人が学習に思考のリソースを向けてきたか、そうではないかの違いだけだからです。やったかやらなかったかの違いを頭のよしあしにすり替えられる構図はいままで何度か目にしましたが、僕自身、あまりいい気分にはなりませんでした。
さいごに
とにかく、英語はやりたい人がやればいいし、やりたくないならやらなけらばいい、というのが僕の意見です。そして、本気でやればだれでもできるようになります。才能どうこうは関係ありません。



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