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僕がふだん意識している議論の深さという考え方について

こんにちは、そっちゃそです。note記事にしようとしてあたためていたネタが思いのほかマニアックになってしまったので、メルマガ読者限定記事としてご案内したいと思います。今回は、僕がふだん英語を教えたりしているときに意識している「深さ」について、裏話的に紹介したいと思います。


まず、ひとつ質問です。あなた自身をふくむ誰もが、特に得意とする分野や知識を持っていると思いますが、その話を以下の属性を持つ人たちにするとして、「同じ話し方」になるでしょうか:


  1. 赤の他人の小中学生

  2. その分野についてまったく知らない赤の他人の素人

  3. ある程度その分野について知ってそうだけど、あまり仲良くない人

  4. 仲良しこよしの知人だが、その分野についてよくわかってない人

  5. 親しい間柄の知人であり、その分野についてあなたと同じくらいよく知っている人


おそらく、1から5でそれぞれ異なる話し方になりますよね。ざっくりとした傾向として言えそうなことですが、「話し相手とどれくらい親しい間柄か」、「その人に前提知識がどれくらいあるか」、「その人自身が会話に何を求めているか」あたりをケアして、多くの人が話し方を変えるはずです。


話し相手がどんな人かをケアせず、好き放題自分が言いたいことをベラベラと言ってしまうとどうしても、聞き手を置き去りにするような話し方になりますし、場合によってはけげんそうなリアクションになるかもしれません。これはすでにふれた、「親しい間柄かどうか」などが特に効いてくる話ですが、あまり仲良くないはじめましての人であるにもかかわらず、「自分が言いたいことを一方的にベラベラと言って、自分だけいい気分になる」というのはあまり好ましい結果につながりません。


この、「相手の立場などに応じて話し方を変える」というのは身近なシーンでもよくあることで、たとえば、教育現場でなにかしらの知識を小中学生に教えるのと、大学生に教えるのではそのやり方が変わることがほとんどです。


x軸とy軸の二次元の座標平面上に、y=xのような数式で与えられる関数を描画することは、誰もが教室でやったことがあると思いますが、その際、y=xに値をいくつか代入して、それぞれに対応する座標を紙にプロットしてから、各座標を通過するひとつのグラフを引きませんでしたか。


ここで、ひとつ疑問がわきます。このように、点をぽつぽつとプロットして、それらをつなぐように鉛筆で線を引いて僕たちはグラフを描画するのですが、なぜ、それぞれの点と点の間を「ただ一通りの、ユニークな実線」で結べることが当然であるとみなされているのでしょうか。


頭の中で地図のようなものをイメージしていただくとわかるのですが、地点Aから地点Bに行くための行き方は、その地点間の距離がどんなに短かろうとユニークには定まりません。それと同じで、二次元の紙にぽつぽつと打たれた点の集合を線で結ぶやり方は、何通りもありそうなのですが、中学生の段階でそこにツッコミが入ることはありませんし、中学の数学の先生もそこにはあえて触れないと思います。


このこと、つまり、点と点の間にユニークな実線をひけることは、稠密性(間にぎっしりつまっていること)と完備性(連続で切れ目がないこと)という話を持ち出し、実数の超密性と完備性を示せば合点がいく話なのですが、この話はほとんど場合で高校や大学の段階ではじめて触れられます。これは、「まったく同じことを学んでいるが、前提や定義をより厳密にすることで、まぎれのない説明に替えた」ということであり、「高校生や大学生になったからより高度な内容を学ぶようになった」というわけではありません。


話を本筋に戻しますが、この、「最初に多くを触れることはしないが、まぎれのない説明を適宜与える」というのは僕も英語を教えるときとかに意識していることで、冒頭で述べたような、「話し相手がどんな人か」に応じて話し方を選ぶようにしています。平たく言うと、「聞かれたら答える」のスタンスを貫き、自分勝手にベラベラと何かをいうことはしない、ということです。


議論はかならずしも、深ければ深いほどよいというわけではありません。グラフ描画の話と同じで、フロントエンドで意図的に言葉数を減らし、興味を示してくれたひとにだけ深く説明する、というやり方がうまくいくこともあります。

 
 
 

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